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笹井宏之さんのうた [韻 文]

第一歌集は『ひとさらい』

ひとさらい 笹井宏之第一歌集

ひとさらい 笹井宏之第一歌集




何日か前のことである。歌人の光森裕樹さんがツイッターでつぶやいていた。
「短歌の魅力のひとつは数える単位が「首」であるところ。「頭」とか「尾」とかだったら、どうしようかと思いますよ。」
「原稿提出の時はいつも、文字通り『首』を差し出している気持ち。これで何卒。」
……そういえばなんで短歌は首で数えるのだろう?
一説によると漢詩から来ているらしいけれど。

1月24日に2年目の命日を迎える笹井宏之さんの短歌に

かるたとるゆび三本の先にあるあなたの所有している首

というのがある。
上述したように「首」は短歌を数える数詞なんだけれど、こういう風に表現されるとドキリとする。まさに取ってきた(あるいは拾ってきた、か)クビがゴロゴロころがっているみたいで。
こういうのを異化作用といいます。ごくありふれた日常からその日常性を剥ぎ取ると、日常は日常ではなくなる。当たり前と思っていたところに違和感や新鮮さが立ち現れる。
引用した歌で言えば、百人一首などのかるたの対戦ではこちら(味方)とあちら(敵)に別れて歌を取り合う。それはごく当たり前のことで、誰もそこに疑問など持たないだろうし、取った札を自分の傍らに置いて積み上げていくことも、ごく普通の行為だろう。けれど、象徴的な部分だけを取り出してみてみると、勝ち負けがあって、しかも自分の取った歌(ひとつひとつに「首」をつけて数えるのだ…!)を戦果として手元においておくゲームなんだなあ、と改めて示されているようにも感じられる。
しかし、笹井さんご自身はそこまでおどろおどろしいことを示唆しているわけではないだろうと、私は直感的に思う。何度も言うようだけれど、「首」で歌を数えることを改めて発見した驚きとか、「ゆび」と「首」という身体性のゆるいつながりが面白い、というのがまずあったのだろうと思う。(そもそも「かるた」としか書いていないこの歌に「百人一首」とか「歌のかるた」を当てはめることが、どうしてできるだろうか。)
……
笹井さんの短歌の特徴の一つはその異化作用だ、と私は思っている。

わたがしであったことなど知る由もなく海岸に流れ着く棒
「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい
影だって踏まれたからには痛かろう しかし黙っている影として
「とてつもないけしごむかすの洪水が来るぞ 愛が消されたらしい」
あわゆき、B級走馬灯が録画されてる脳を洗うあわゆき

そしてもう一つの特徴は「遍在する私」。
実はどちらについても第一歌集『ひとさらい』の中でご自身が言及していることなので、それだけ自覚的に歌を作っておられたんだろうな、と思う。

「短歌をかくことで、ぼくは遠い異国を旅し、知らない音楽を聴き、どこにも存在しない風景を眺めることができます。/あるときは鳥となり、けものとなり、風や水や、大地そのものとなって、あらゆる事象とことばを交わすことができるのです。/短歌は道であり、扉であり、ぼくとその周囲を異化する鍵です。」

ここからは誰とでも共有できる感覚ではないかもしれないけれど、私自身もまた、自然への通路が自分にあるはずだと思っている。ひとは自分を取り巻く世界の一部として何にでもなれる、それが水であれ、山であれ、煙であれ。極小の「私」という存在は、自然という通路を通していかなる極大なものにも(もちろん、自分よりずっと小さなものにも当然)なれる、という。だから、的確なことば、しかも飾らずやさしい平易なことばを使って笹井さんがそうした人間観、自然観を示してくれたとき、わたしはずいぶん大きな衝撃を受けたものである。

一様に屈折をする声、言葉、ひかり わたしはゆめをみるみず
魂がいつかかたちを成すとして あなたははっさくになりなさい
ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす


「比喩」と言ってしまえばそれまでだけれど、おそらくご本人はほんとうに「鳥」であり、「けもの」であり、「風」であり「大地」そのものとしてご自身を詠んでいたのだろう、と私は思うのです。

少しずつ海を覚えてゆくゆうべ 私という積み荷がほどかれる
胃のなかでくだもの死んでしまったら、人ってときに墓なんですね

あと一つ二つ、述べたいこともあるのだけれど、またの機会にしたいと思います。
笹井さんの命日に第二歌集『てんとろり』発売されます。


てんとろり 笹井宏之第二歌集

てんとろり 笹井宏之第二歌集

  • 作者: 笹井 宏之
  • 出版社/メーカー: 書肆侃侃房
  • 発売日: 2011/01/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)




『ひとさらい』集中から2首。

ああっ詩が、戦後観測史上初おおあめとなり稲を育てた
野菜売るおばさんが「意味いらんかねぇ、いらんよねぇ」と畑へ帰る

とても、おもしろい。

第56回 角川短歌賞雑感 [韻 文]


短歌 2010年 11月号 [雑誌]

短歌 2010年 11月号 [雑誌]



先週ようやく「角川」を購入できた。
今年の話題の中心は受賞者全体のレベルがとても高かったということ。
私個人としては、それに加えて短歌賞と次席のふたりともに21歳と18歳という若さであったことに、驚いた。
短歌賞受賞の大森さんの静かな恋の歌には、切なく淡い、若い女性の思いがなめらかに詠みこまれている。審査員の講評でも「永田紅さんを思いました」と言う一節があったけれど、私も同じような感想を持った。

祈るようにビニール傘をひらく昼あなたはどこにいるとも知れず (大森さん)

どこに行けば君に会えるということがない風の昼橋が眩しい(永田さん)

お二人は同じ短歌結社「塔」所属。

また、ちょっとだけ俵万智さんにも通じるものがあるかな、という気も。若干。

背景にやがてなりたしこの街をあなたと長く長く歩いて

うーん・・・なんとなく俵さんの歌にもありそうな感じ。
しかし上手い。
背景に「やがて」なりたしというところとか。「長く長く」のリフレインなんかも。
「やがて」という言葉をここに入れられるというのが、実は簡単そうに見えてむずかしいと私は思うのです。初心者にはできない。

好きだと思った歌をいくつか。

美しいものを静かに拒みつつぺんぺん草を踏んでゆく土手
これは君を帰すための灯 靴紐をかがんで結ぶ背中を照らす
返信を待ちながらゆく館内に朽ちた水車の西洋画あり
ハルジオンあかるく撓れ 茎を折る力でいつか別れるひとか
プリンタが白紙を垂らす睡蓮の絵をともに見た日の遠ざかり
とどまっていたかっただけ風の日の君の視界に身じろぎもせず
ふたりでは暮らしたことのなくて葉はかぎ編みに似た影を水辺に
わたしにも君にも忘れられている日照雨もありて仰角の街

特に最後に向かっていくところで、(おそらくは)年上の恋人との別れを、静かに淡々と受け止めていくさまが詠まれていて、そのあたりが好きだと思った。
それでも日常は過ぎていく、そういう風に淡く消えゆく日々を「光って消える」と結んだ50首。

一方、小原さんの技巧力の高さには私は一読、のけぞった。文語をきちんと駆使しながら、細やかな視線で生活の細部を、そこから生じる一瞬の心の動きを、あざやかに切り取っている。

カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン
仰向けに蝉さらされて六本の鉤爪ふかし天の心窩へ

こんな歌を十代の若い女性が詠んだのか、と思うと本当にびっくりする。
私の好きな歌人に柏原千惠子さんという方がおられるのだけれど、そしてその方は最近亡くなられたのだけれど、その方の歌のような印象を持った。
柏原さんと小原さんの歌について、何度か説明を試みて、しかし上手くいかないので「印象」とざっくりと言ってしまった。
自然に対する、一途な視線なんだろうか。
このまま歌いつづけることで、この若者はどんな場所へ行くのだろう。
実は私は大森さんよりも小原さんの歌に心惹かれるものが多かった。

談笑のならびのままに座礁せり霧笛やさしき放課後の椅子
訃報 抱きとめるこころは天頂を発つ夕立の粒の加速度
この声が最後と知らず話しいきあるいはわれのみ気づかざりしか
遠ざかる肩はひかりを塞きとめて今宵いつしか暗き稜線
いずこかの金木犀のひろがりの果てとしてわれあり 風そよぐ

ちなみに柏原さんのお歌。
テーブルを拭ふわが手の動きをり動けりひとつ永遠のなか
山峡に瀧みれば瀧になりたけれなりはてぬればわれは無からむ

また戻って小原さんの歌。

てのひらのくぼみに沿いしガラス器を落とせるわが手かたちうしなう
読み終えし手紙ふたたび畳む夜ひとの折りたる折り目のままに
雪降れり沈黙降れり眠りいるひとの胸郭わずかたわめて
さざめけるホームルームに西陽射し影みなおなじ傾きをなす

一連の中に何度か鳥が出てくる。
大森さんと比べて、周囲に向ける視線も、自分に向ける視線も、やや詠み手からは距離のあるように感じるのも面白い。
偶然にもカーテンを詠みこんでいる歌が両者にあるので引いてみる。

カーテンに遮光の重さ くちづけを終えてくずれた雲を見ている (大森さん)
カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン(小原さん、既出)

違うなあ・・・。

かつて俵万智さんが角川短歌賞を受賞したとき、次席は穂村弘さんだった。
俵さんの衝撃的な登場以来、短歌は「口語短歌」「ライトヴァース」全盛の時代がきて、ずいぶん文語の歌は減ったようだし、つい最近だって「完全に口語の時代がきた」なんて言われていたけれど、どうしてどうして。小原さんの端正な表現には、口語とは違った魅力というか、スッとうつくしいたたずまいが感じられる。

とにかく若い二人のこれからがとてもたのしみな気持ちになった、今回の短歌賞であった。

好きなうた 4 [韻 文]

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家々に釘の芽しずみ神御衣のごとくひろがる桜花かな
大滝和子

私のイメージでは、夜桜です。

すきなうた 3 [韻 文]

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宵闇をゆける一機の明滅の息づまるまですべては未来

柏原千惠子

この方の作る歌にとても心惹かれるのは、まずそのたたずまいなんだと思っている。
凛として、何ものにも寄りかかることをせず、自己を突き放してうたうことのできる、その潔さ。
けれど周囲への愛というか、こまやかな同調(シンクロと言っていいだろうか)はことばの端々にあふれ出ているのである。


塚本邦雄は『現代百歌園』で柏原さんの

銀の匙はつかに塩をのせてをり青山川のぬばたまの夜

を挙げて「この冷え冷えとして危く、鮮やかな遠近法、作者のうちなる小宇宙の夏景色は、戦慄的でさえある」と述べている。

冒頭歌のようにやわらかな音を踏みながら、歌を運んでゆく手法も、選ばれていることばも正統的であろうし、第五句に大きな景が開かれるのも、とても気持ちのよい歌いぶりなんだろうと思うけれど、「息づまるまで」というのが、この歌を引き締めている。それこそ、息をのむほどに。
宵闇をゆく飛行機、その航跡を知らせる光の明滅を息づまるほどにじっと眺める目がこちら側にあって、一方にはその飛行機の行く手に広がる未来、今を生きるその瞳の持ち主の未来、それらが重ね合わさるようにしてこれから暮れてゆく空に託されるさま。そのひっそりとやはり息づまるようにある緊迫。
けれど柏原さんの歌を、こんな風にひとつの解釈に収めてしまうことは畏れ多いことだ。
そういうたたずまいの中に、歌そのものが立っている。


柏原さんは2009年6月に亡くなっった。
東郷雄二さんが遺歌集『彼方』の評をネット上でなさっている。
http://lapin.ic.h.kyoto-u.ac.jp/tanka/tanka/kanran37.html

ほかに柏原さんが徳島で作られていた同人誌「七曜」(2009年12月)において追悼特集。

すきなうた 2 [韻 文]

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夜半さめてみれば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん

馬場あき子


桜を詠んだ歌はそれこそ死ぬほどあって、古典から現代短歌までいくらでも挙げることができるだろう。
だから秀歌もものすごくたくさんある。
実際、桜を詠んだものだけで「好きなうた」をシリーズ展開できるんじゃないかと思うほどである。

この歌はたとえば、ながれゆく時をとどめるすべを知らない私たち、すべての人の持つ意識と読むことができるだろうか。方丈記の冒頭「行く川の流れは絶えずして」とか、鏡獅子(がふと思い浮かんだのだけれけど)の長唄、若い弥生の踊る場面で「ちりくるは」と繰り返されるところとか。
日本人的な感覚として、うつろいゆくもの、流れてゆくものへの注意深いまなざしが挙げられると私は思うのだけれど、桜はそのうつろいゆく時をよく表すことのできるモチーフなのだろう。

さらにこの歌は、夜の桜を読んでいるところが「とどまらざらん」に見られる、なにかほの暗い不安感とよく響きあっている。

夜の桜は、昼間見る桜と違って、いっそう美しいようだ。
夜の妖しさ、夜の静謐。死を思わせる、その恐ろしいまでの魅力。すべてをまとって桜はたたずむ。
桜の花びらは風もないのに散るというけれど、それが「しらじら」と散りゆくさまは、やはりどこか恐ろしい。
そうして、その美しさの中にひそむ一瞬一瞬の時の堆積、しかもその堆積が一時もとどまることなくくずれ流れてゆくさまの、なんという退廃的なうつくしさ。

人もまた年年歳歳、一時も同じところにとどまってはいられない。
昨日の私はもう今日の私とは違う存在である。
分子レベルでもねえ。
この歌の2年前に作られたのが

さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり 

でした。
うつろいゆくものへの注意深いまなざし、その鋭いたたずまい。
絵になります。

すきなうた 1 [韻 文]

月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして

在原業平

紀貫之は『古今和歌集』仮名序で「在原業平はその心余りて詞(ことば)足らず。萎める花の色なくて匂ひ残れるがごとし。」と評し、例としてこの歌を挙げている。

が、しかし余りある情がこの歌の肝です。
『伊勢物語』では入内した恋人を思って、今はもう彼女のいない家を訪れ「立ちて見、ゐて見、」している男。その切なさといったらない。


去年は確かにここにいたはずの、心を寄せ、歌を読み交わしたりしたはずの、その彼女はもはや今、手の届かないところへ行ってしまっている。死別であればうつくしい思い出だけが残ろうが、彼女は現に生きているのだ!自分には決して手の届かないひととして!


立ちて見、ゐて見、というのは自分の感情だけが取り残されてしまった、そのいたたまれなさではないのか。月はあのころ見た月ではない。
春もあのころとは違うもの。
あなたがいないというのは、そういうことだ。
姿形はおなじように見えても確実に時は経っている。
月日は過ぎていくのに。
なのに、私の気持ちだけが、動こうとしない。
もとのまま。
ずっと、変わらないでいる。

うーん、切ない。
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