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石川啄木 その1 [本]


石川くん (集英社文庫)

石川くん (集英社文庫)



石川啄木は、小さくて(身長が158cmくらい)おでこが大きくて色白でとってもかわいらしかったらしいのだけれど、一方で、けっこう生意気で天才気質でいたずら好きな性質でもあったようです。
で、枡野さんはこの愛すべき啄木に向けて、親しみを込めて「石川くん」と毎回呼びかけながら、その歌と生活についてコメントしている。
枡野さんによる啄木の歌の現代語訳つき。

例えば・・・
友がみな我よりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻としたしむ(啄木)
→友達が俺よりえらく見える日は花を買ったり妻といちゃいちゃ(枡野さん)

では枡野さんの訳歌
目ざめてもふとんの中でぐずぐずとしちゃうダメさを責めないでママ
の元歌はなんでしょう?

絶妙なコメントも時に辛口で、時にやさしくて、ユーモアがあって笑えます。
軽く読み終えられるので入門書としてとてもよい本だ。


石川啄木 (新文芸読本)

石川啄木 (新文芸読本)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 1991/01
  • メディア: ハードカバー


本の画像がないみたいなのですが、こちらは少し踏み込んで石川啄木と言う人を知るのによいです。
いろいろな人が多角的に啄木を読み解いている。
それこそ歌人から、文芸評論家から、小説家から。
資料も豊富で、それがまたとても興味深い。
明治41年、啄木から妹光子にあてた手紙。
「兄さんはあんまりえらい為に、金持ちにもなれぬし、親孝行も充分出来ない。死んだ姉さんはしかたがないし、岩見沢の姉は馬鹿者だ。お前だけでも専心親孝行してくれ。少しでもおっ母さんに心配さしたり口答へするなら死んで了(しま)へ。この兄が頼むから毎日毎日少しずつでも余計におっ母さんを慰めてくれ。そでなかつたら死ね。」
・・・・!!ひでえ!!
でも啄木という人の、なんかこう、ジャイアンみたいな一面(オレ様だけどやさしい)が垣間見られるようではないですか。
いろいろと面白かったのですが、啄木のお父さんも苦労をしたようで、はっきりとは分からないけれど、啄木の東京時代の経済を何とか支えるためにあれこれ手を尽くし、結果、寺を追われることになってしまったのでは・・・という水上勉さんの論は特に興味深かったです。
一般には「ダメな父親」のイメージが強いからこそ。

ピグライフ [つれづれ]

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今年アメピグを始めて、かなりはまってしまいました。
一時期やたらと釣りばかりしていたものですが、最近の私はもっぱら庭であたふたしています。
アメピグはちょっと前からお庭バージョンでも遊べるようになっていて、
お庭バージョンをピグライフという。
庭に木を植え、作物を育て、その収穫物で料理を作ったり洋服を作ったりします。
例えば洋服を作る場合には、
庭にコットンを植え→収穫し→糸を紡ぎ→染め→裁縫して→ようやく新たな服が着られる
という風になっている。

いろいろと機能がある分、サーバーにかかる負荷も大変なものらしく
最近のピグライフはメンテナンスばかりしている。
そしてそのメンテナンスばかりしている間に、
ピグライフではなんと家畜が飼えるようになったのでした。

私は直感した。
これは・・・!!!
牛を飼う→収穫する→肉料理を作る→みんなに食べさせる
ニワトリを飼う→収穫する→肉料理を作る→みんなに食べさせる
ということか・・・!!!
今までほのぼのと庭仕事をしてきたけれど、とうとうここまで来てしまったのだな・・・

生きると言うことは食らうことである。
食らうと言うことは殺すことである。

ピグライフ・・・
なんと真実に迫ったゲーム…!!!
たかがゲームと侮ってはいけないのである。

それで家畜に名前がつけられるのですが、
私はいずれその家畜たちは食べられるものと思い込んで名前をつけたのです。
どちらかというと悲劇的な名前がいいかと思って
「葉造」(ウシ)
「島村」(ウシ)
「大助」(ニワトリ)・・・以下略
というような感じで名づけた。
いつか食べてしまうかもしれないけど、ごめんね。
とかなんとか思いながら。
そして庭に遊びに来てくれた人たちが彼らに水やら飼料やらを与えてくれたりして時が経ち、とうとう収穫のときを迎えたわけです。
私は収穫した。

す、すると!!

ウシからは牛乳が、トリからはタマゴが収穫できるではないですか・・・・
今までそれらの食材はお店で買っていたのですが。。。。。
なんということだ・・・・!
私は彼らに男性名をガツガツつけてしまったというのに・・・
牛乳をくれる葉造。
タマゴをくれる大助・・・・。

なんだよー。
これでは悲劇ではなく喜劇ではないか。

ピグライフに翻弄されまくっている最近のなまぬるい生活でした。

川端康成と東山魁夷展 [散 歩]

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川端康成がその生涯において膨大な量の美術品を集めていたことは、よく知られていることなんだろうか。特に戦中から戦後にかけての作品群を読むと美術品の数々が作品中に現れているので、好きな人は知っていることなのかもしれない。
川端康成記念会が平成14年ごろから始めた「川端コレクション展」や、それに関連して明らかになった東山魁夷らとの交流が本になったりしたことで、川端と日本美術との関係は一般的に認知されるようになったのかな。

その、コレクション展が山梨県立美術館で開催されたので、見に行ってきました。
国宝「十便十宜図」(池大雅・与謝蕪村)、同じく国宝「凍雲篩雪図」(浦上玉堂)が目玉。
私はずっと浦上玉堂の絵は写真でしか見ていなくて、
その濃淡の濃い、激しいタッチ(に見える)の絵に
「こんなに激しいものが、川端は好きだったのか・・・」
とちょっとがっかりしていた部分もあったのです。
少なくともこの絵については、写真からはあまりいい部分は見えてこなかった。
けれど、今回初めて「凍雲篩雪図」を見ることが出来て、あまりの柔らかな空気に圧倒されました。
雪の降る冷たい空気、けれどもけっして尖った冷たさではない、そういう空気が画面には漂っている。それに、下から見上げる峰の大きさは、確かにずいぶん大きくて孤高ではあるのですが、大きく人を包み込むような懐の深さも感じさせます。
この絵は下から眺めるのがいいよな、と私は絵の前にしゃがみこんで長いこと見上げてみましたが、見れば見るほどいい気持ちになってしまう絵でした。
ああいう境地というか、生活って、やっぱりある種の理想な気もする。
孤独ではあるんだけれど。

川端コレクションの中で特に私が好きだったのは金農の「墨梅図」。
これはじっくり眺めているとあまりに好きだなあ、と思って涙が出てきそうだった。
黒くはっきりと描かれる花の蕊の存在感、それとは対照的に淡くふんわりと開く花弁。
すっと芸術的に伸びる幹と枝の線の、交差する影が生むうつくしさ。
花の向こう側に広がる空の、冷たい青さが思われるような伸びやかな空間造詣。
緻密な部分部分が積み重ねられ、積み重ねられして大きな画面を覆い尽くす、その生命の確かさ。
ほんとうの自然がなくとも、この寂びた一枚の絵に私は花も空も香も感じられる。
そのくらい、私はこの絵が気に入ってしまったのでした。
墨絵は不思議だ。
色の(ほとんど)ない画面に、無限の奥行きのある世界がある。
しかも逆説的に思われるかもしれないけれど、とても華やかでもある。

他にもすばらしい美術品がたくさん出ていました。
私は、川端の美術へのまなざしには信仰に近いものがある、と思う。
しかし一方で、私自身は好きだと思う美術作品にただただ惹かれてしまう、というのが正直なところで、美術品を見ていると本当に「齢のぶる心地」がするよなあと思えるんだよね。
川端の実際はどうだったんだろうか。

ちはやふる/超訳百人一首 うた恋い。 [漫 画]


ちはやふる (1) (Be・Loveコミックス)

ちはやふる (1) (Be・Loveコミックス)



『ちはやふる』については、以前から悩んでいました。
買おうかな、どうしようかな、でもみんながいいって言ってるしな・・・でもまだ完結してないから続きが気になるな・・・全部出揃ったところで一気読みしたいしな・・・
というぐちゃぐちゃした逡巡を振り切って、とうとう買ってしまいました。
『ちはやふる』。
現在までのところ13巻まで出ていて、9月に14巻が出る予定らしいです。

『ガラスの仮面』は演劇バカの天才・北島マヤちゃんのお話ですが
『ちはやふる』は競技かるたバカの天才(?)・綾瀬千早ちゃんのお話です。
キャプテン翼』はサッカーバカ?
『スラムダンク』はバスケバカ?
『キャプテン翼』は私は読んだことはないのですが、いずれの漫画の主人公たちもすがすがしいほどの熱血ぶりで、地道にシュート練習したりとか、役になりきって生活しちゃうとか、電車の中で(かるたとりの)素振りしちゃうとか、とにかく一生懸命。
ただ、『ちはやふる』は、古典的な熱血スポーツ漫画の系統を汲んではいても、扱っている題材が「百人一首」という点が少し特異なところでしょうか。

『君に届け』も、純粋でまっすぐで、そうして一生懸命な爽子ちゃんを、読んでいるこちら側も応援したくなってしまう空気がありますね。
『ちはやふる』の千早ちゃんも、同じです。
純粋にかるたが好きで一生懸命で、時々回りが見えなくなってしまうんだけれども、それでもがんばる姿が時に涙を誘うくらいです。
私は昨日この漫画を10冊ほど大人買いしてきて、今日にかけて一気に2度読みしましたが、2度とも泣いてしまいました。
かるたで仲良くなった3人が小学校卒業と同時に別れ別れになってしまうところとか、お姉さんの芸能活動のサポートに夢中になっているように見える両親が実はちゃんとちはやちゃんのことも同じように応援していたのだとか、真島君という幼馴染の、いかにも出来るゆえの苦しみとか、そういういちいちに反応してしまってぼろ泣きでした。
若い人が何かに向かって掛け値なしに頑張る姿って、今だからわかるんだけれど、とても美しいのですよね。
主人公が所属するかるた会の先生(お師匠?)が、高校生を指導するのは楽しいなあ~と言っている場面がありますが、そういう大人の視点で読むことも可能。
この漫画の面白いところは、実はそうした複眼的な視点の取り方にもあるのでは、と、漫画に耽溺しながら、私は考えてみたりもしました。
簡単に言ってしまえば、登場人物のキャラが立っていて、それぞれによく丁寧に描かれている、ということなのでしょう。

ところで須藤くんはとても人気がありそうですけれど、彼のセリフはいちいちほんとに面白いです。
「おれ、百人一首全部覚えてないやつ虫だと思ってるから」
肉まんくんと仲間から呼ばれているちょっとぽっちゃりした子がかるたの対戦相手になったときのひとこと
「焼くよ」
可笑しい…。。。



超訳百人一首 うた恋い。

超訳百人一首 うた恋い。

  • 作者: 杉田 圭
  • 出版社/メーカー: メディアファクトリー
  • 発売日: 2010/08/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


超訳百人一首 うた恋い。』
こちらも百人一首。
この漫画は百人一首の中の恋の歌に絞って、人物関係とか、歌の詠まれた状況などを解説していくものです。
絵もきれいだし、よくできた解説になっています。
ご興味があれば。

つみきのいえ [映 画]




2008年、加藤久仁生監督。
フランスのアヌシー国際アニメーション映画祭でアヌシー・クリスタル賞。
2009年アカデミー賞短編アニメ映画賞。

誰だっておおむねそうなんだろうけれど、大学時代はよかった・・・と振り返るとき、その「よかった」ことの内実には、実に様々な意味がこめられている。
そうしてその「よかった」ことのひとつに、よき友と出会えたことが含まれるのです。
私の大学時代の友人のひとりであるntさんは、アニメーションとか外国文学についての私の先達です。
私は最近見たのですが、「つみきのいえ」も2009年にレビューを書かれていらっしゃいました。↓
http://blog.goo.ne.jp/ntmym/s/%A4%C4%A4%DF%A4%AD%A4%CE%A4%A4%A4%A8

この作品は、水位の上がり続ける土地に住んでいる一人暮らしの老人の日常を描いた12分のショートアニメで、その淡々と過ぎていく時間(すなわち老人の人生)を鉛筆風の細やかな線とか、あたたかいセピアがかった色調とか、ぽつんぽつんと響き続ける音楽などによって表現しています。せりふは一切ありません。
DVDには別バージョンとしてナレーションが入っているものもあるらしいのですが、私は特にナレーションはいらないと思ったし、ntさんもそのようにおっしゃっているので、やっぱりナレーションはいらないのだと思います

「アートアニメーション」という言い方は、あまり好まれないむきもあるようだけれど、「人間とはなにか」「生きるとはどういうことか」という問いに対して、やはりこの作品はある解釈を提示しているんじゃないかと、私は思います。
そういう意味では「芸術」なんだと思うな・・・。

三島由紀夫『憂国 映画版』、DVD「憂国」 [映 画]

639.jpg 決定版 三島由紀夫全集〈別巻〉映画「憂国」

※「憂国 映画版」は画像です。全集版の方はAmazonへ飛びます。


なんだか三島祭りみたいになっていますが、これで一旦終了です。

三島由紀夫にとって、「おススメは」と尋ねられたら、まずこれを読んで欲しいという意識があるらしく、先に取り上げた「川端康成と三島由紀夫」でも、本人がそんなことを言っていたと記憶している。
それで「憂国」。
原稿用紙に換算すると、ほんの50枚ほどの小品だが、三島のすべてが詰まっているのだという。
筋はそんなに入り組んではいない。2・26事件のときに、反乱軍の仲間たちを討たざるを得なくなった主人公が、妻とともに自決するお話。
友人たちはクーデターを起すに当たって主人公を誘わなかったのだが、それは彼にうつくしい妻がいただめだ。主人公はそれをわかっていて、友人と国家との間に死を選ぶ。
この主人公の中尉と妻の麗子さんの、若くてとても美しい様子が描かれる冒頭から、最後の主人公の切腹シーンまで、三島らしい華麗なことばが巧みに配置されつつ物語は進んでゆく。
のちに三島はこの作品にこだわるあまり、自分でお金を出し、人を集めて秘密裏に映画を作ってしまった。
原作、脚本、監督、主演、ぜんぶ三島由紀夫である。
「映画版」にはその映画のカットが写真で収められており、本の最後には三島による映画製作の動機と経緯がつづられている。
この最後の部分がとてもおもしろくて、三島というひとがどれほど饒舌であったか、どれほど無邪気でかわいらしいひとだったか、ということがこの部分から垣間見られる。
無邪気、とか、かわいらしい、という表現はこの場合あまり適切ではないかもしれないが、わたしにはなかなかこれに代わることばが見つけられない。

三島は「憂国」のことをつらつら考えているうちに、他のひとには監督もさせたくないし、主役もはらせたくない、なんだか自分がどうしてもこの映画を作りたくなってしまった、らしい。
それでプロデューサーを頼んだり、舞台美術を考えるのも一苦労、困難が多々あった上に、相手役の女優探しもこれまた困難を極め、ようやく自分のイメージにふさわしい女性を見つけた。
そこで彼女につけた芸名が「鶴岡淑子」。
鶴岡八幡宮の古典で風雅なイメージを連想させ、さらに貞節でうつくしい女性らしい「淑」の字を使った名前がいいと、三島自身が考えたものだ。
鶴岡・・・
そうか~~

血なまぐささとは縁のない能舞台を使って、そこに派手に血の海を作ろうと考えて高揚し、全編をおおうワグナーの「トリスタンとイゾルデ」の尺にあわせた台本を、分・秒の単位で書き上げる。
セリフのない映画のため、筋の説明をするキャプションがときどき入るのだが、それも全部三島自身の直筆である。
ちなみに舞台の中央に掲げてある「至誠」の掛け軸も三島自身の手によるもの。部下を思って高位の武官が書いたように見えるよう、工夫をしたと説明がある。
(さらに、後に映画が出来上がって海外で公開するためにプレスシートを各国語で出したときも、この「至誠」は、三島が何枚も何枚も全部手書きで書いたと言う。)

とにかく、「何のために何をした、どんな風にどんな苦労をした」ということが、事細かに書き記されている。
撮影期間が短かったこと。
2・26のころの青年将校が着る軍服が見つからず、足を棒のようにして各所を尋ね探すがさっぱりだめで、特注で作ったこと。
帽子は最後の軍帽職人さんを探し当てて無理にお願いして作ってもらったが、(ここからが面白い)、その職人さんは高齢と言うこともあり、体調不良をかこっていたのを、三島の注文に奮闘してしまって、帽子を作り上げた後はすこぶる調子がよくなってしまったのだとか。なんだか、漫画のようなんですけど・・・ほんとうかな。
弁当くらいいいものをスタッフに食べさせたかったのに、プロデューサーがお金は大事だぞ、と言ったのでしぶしぶ言うことを聞いて安い弁当にしたこと。
主人公が切腹したあと、その脇を通り過ぎる夫人の着物のすそが、中尉の頭から転がり落ちた帽子に触れて、帽子がぱたっと倒れる演出はよかった、というような感想もあった。

いよいよ映画が完成して、国内で映画会社の重役とともに試写をしたとき、「三島くん、おそれいったよ」と言われたとか、海外に作品を出した後もだれそれにほめてもらえた、というようなことが一生懸命書いてあって、ここらへんはとても無邪気な三島である。

そんなこんなが、みっしりと書いてある。
ファンにはたまらないのだろうな、と思いました。

「映画版」を読んだついでに、職場の方のご好意によりお借りしたDVD「憂国」も見た。
「映画版」で予習をしていたのでわりあい、面白く見られました。
30分に満たない短編映画。
これが海外でかなり高い評価を受けたのだなあ。
DVDは新潮の全集に収録されています。


決定版 三島由紀夫全集〈別巻〉映画「憂国」


川端康成と三島由紀夫 伝統へ、世界へ [本]

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去年、鎌倉文学館で開催していた展覧会の図録。
ミュージアムショップで購入できる。

川端は三島より26歳年上で、川端が三島を見出し、作家として導いたと言っても過言ではないのだろうが、三島も川端も、意識の上では師弟という思いはなかったようだ。
三島は死ぬまで川端を「川端さん」と呼び、また一方の川端も三島については「師友」と言っていたという。

二人の出会いから三島の死までを主軸とした展覧会であったのだろうが、図録を読んでいて興味深かったのは、川端が三島にノーベル文学賞の推薦文を依頼しているところ、だろうか。つねづねお手をわずらはせて恐縮ですが・・・というような書き起こしで「のおべる賞」の推薦文をひとつお願いします・・・という手紙が図録に掲載されている。
川端は三島の批評の力をつねづね高く評価していたらしい。
私は苦手意識が先に立ってしまって、三島の文章にはあまりなじみがないのだが、図録に収録されているこの推薦文をはじめとして、彼の批評の文章の絢爛さには、圧倒されてしまいました。たしかに人をうっとりさせる、ことばの巧みさが三島には、ある。
その批評力の確かさを、絢爛な文章を、たのむところが川端にはあったのだろう。

一方の三島は同じ頃、自分もまたノーベル文学賞の候補者になっていると言う自覚があった。
で、川端の受賞の知らせを聞いて大変に喜び、すぐさまお祝いの文章を書いて、川端邸に向かうそのタクシーの中で、日本にノーベル賞が来るのは少なくとも10年は先だろうとつぶやいたらしい。
この国際的な賞を、二人は競っていたのだった・・・。

川端の国際ペンクラプ副会長就任とか、三島の「宴のあと」事件とか、ふたりがそのときそのときをどんな風に過ごしてきたか、それが彼らの後の人生をどんな風に決定していったのか。
丁寧に二人の奇跡を追った図録です。
展覧会も見たかったなあ。
後の祭りだけれど。

三島由紀夫の家 [本]

三島由紀夫の家 普及版

三島由紀夫の家 普及版



三島由紀夫という作家についての私のイメージは、饒舌な人、自己陶酔の人、自意識のあふれ出ている人、というような過剰さに集約され、それがいつも私を「お腹いっぱい」にしてしまう。だから『仮面の告白』も『金閣寺』も、今まで挑戦してきたほとんどの作品を、私は途中までしか読めなかった。好きな歌舞伎でも、三島脚本の『椿説弓張月』では、白縫姫の残酷シーン(お琴を弾くお姫様の前で裏切り者が折檻されるシーン、杭を肉体に打ち込み、血がだらだら流れる)が、これまた仰々しく、長々しく、かつまた生々しく、「三島はここを見せ場と考えていたんだろうなあ・・・」と思うともう、なんだかどっと疲れてしまう。
作家というのはある種の過剰さを持つひとなのであろうし、もっと言えば芸術家とは一般的に考えられる範疇には決して収まらない人々なのだろうから、誰もが同じような要素を持つはずなのに、やはり私は三島由紀夫が苦手なのである。

この写真集は、篠山紀信さんが撮った1000枚以上の三島邸の写真から編んだもので、今は普及版として小さなものが出回っている。
写真の美しさもさることながら、細部までこだわった三島の美意識が、家のいたるところに垣間見られ、つくづく感心してしまう。
例えば盛装した人々が庭でお茶を飲んでいる写真。
庭に面して連なるガラスの扉を背に三島はバルコニーに席を取り、庭でゆったりとくつろぐ来賓たちの中、あたかも王様のような雰囲気をかもし出している。
玄関、、応接室、居間、3階から見る景色。
どれをとっても大変ぜいたくで、ひとつひとつの家具・小物がこだわり抜かれて配置されている。玄関の照明器具は、そういえば庭園美術館の朝香宮邸でよく似たものを見たように思うし、自ら特注で作らせた応接室のテーブルなどは、(「Y・M」のイニシャルがなければ)洗練された上品な造詣である。
西洋風の趣味のよい古い調度。
贅沢な空間。
こんなところで営まれる「生活」が、ほんとうにあったのだ、と思うと、そら恐ろしくさえ感じる。

ただ、芸術的な家である一方で、それが三島という人の個性なのか、ところどころに「えっ!」とびっくりさせるそぐわなさとか、ぎょっとさせられるほどの家主の自信などが垣間見られるのも事実。それはなんとも言えないユーモラスさにも通じます。
例えば、庭のアポロン像。私はやや引きました。
大江の『性的人間』に出てくる海辺の家の庭に立つアポロン像を思い起こしたりして。三島自身がそのアポロン像の下に立つ写真を篠山さんは撮っていて、
「それって、自分はアポロンだぜっていうことなんだろうな・・・」
とやっぱり思ってしまいます。
そのアポロン像の足元に施されているきれいなモザイクタイルは長さ15cmの大理石だそうで、つまりは15cmの長さで地中に埋まっているというぜいたくさ。
こだわりがあるのだなあ。。。。

そしてまた、立派な書斎、自著の並ぶ書棚、重厚な雰囲気。
しかしその中に配置されているのは、当時の最新の家具であっただろう、スチール机。
今見ると本当になんというか「えっ!!ここでスチール!?」とびっくりしてしまいます。
(ちょっと前に見た『砂の器』で刑事さんたちが喧々諤々していたとき、その傍らにはべっていた、くたびれた机・・・あれと同じだよ…)
さらにその素敵な書斎はじつは全面鏡張りなのだとか。
あ、やっぱり…なるほど・・・
というような感じで、それはそれは美しい家を、家主の三島というその人の個性とともに、とても興味深く見ることのできた写真集でした。

私の中で、三島という作家に対する見方が、すこしだけ変わったようにも思います。

『先生と僕』-夏目漱石を囲む人々ー/花のズボラ飯 [漫 画]


先生と僕① (―夏目漱石を囲む人々―)

先生と僕① (―夏目漱石を囲む人々―)



文学ファンにはたまらない漫画。
よくぞここまで、とうなるほど作者はよく文献を読み込まれています。
ひとえに愛なんだな~
漱石門下生が漱石を愛しぬいたように、作者もとても漱石を愛しているのだろうな~
という愛が感じられる四コマ漫画。
ときどき参考文献が本文そのまま出てきます。
特に笑ってしまったのは鈴木三重吉が自分の子どものために「赤い鳥」を刊行したときの四コマで
芥川に「なあ~書きたいだろ?書こうぜ?」的な絡み方をしていたところと
2巻に載っている正岡子規の手紙。
「××だろー」って語尾を伸ばしていたり、「忘れてくれよなっ!なっ!」っていう風な子規のかわいらしいところが垣間見える部分。
おかしい!!


花のズボラ飯

花のズボラ飯

  • 作者: 久住 昌之
  • 出版社/メーカー: 秋田書店
  • 発売日: 2010/12/20
  • メディア: コミック


私には料理の才はないのですが、料理をもぐもぐ食べる漫画を読むのは大好きです。
特に久住さんの原作で、谷口ゴローさんが絵を描いた『孤独のグルメ』。
主人公が顔色一つ変えずにひたすら飯を食う!!という漫画で、
淡々とした日常の中に食べ物との格闘(まさにフードファイト!)があるところがとっても楽しい。
食べることに対して真摯なんだな、この主人公は。

また、今、微妙にリバイバルしているようですが、『駅前の歩き方』が『駅前グルメの歩き方』になって再登場していますね。
これもいい漫画だと思います。
旅をしたらその土地の食べ物を食らうべし!
旅の常道。そしてそれが楽しみでもあるのです。
あまりいろいろ盛り込みすぎず、あくまでも主役はご飯であり、食べ物なのですね。

で、『花ちゃん~』の漫画ですが、私としては久住さんの原作に惹かれて購入したものの
満足度から言うと半分くらいです。
多分、主人公の設定が共感を得られにくいものにしていると思う。
男性で単身赴任していて、こういうズボラなご飯を食べている、というのであれば
それはそれで納得できる部分はあると思うのですが、
花ちゃんは女性で、主婦で、それでいてこれほどのズボラ飯・・・・となると「ないな~~」と思います。
しかも部屋が汚すぎる。
世の女性たちはこの漫画の主人公にどんな感想をもたれたのでしょうか。

一番のけぞったのは、お隣さんから栗をもらったときのお話で
皮をむくのがめんどくさいしな~店長(花ちゃんお勤め先の書店の店長さん)に丸投げだなっ
というところ。
えええええっーーーー。
本当においしいものは手間隙がかかるもので
栗ご飯もそのうちのひとつだと私は思っているのですが・・・
(でも、妹はあまり栗は好きではないと言っていたなあ・・・)
それこそ栗おこわ作って冷凍しておけばいいのに・・・
もったいない・・・・

という感想を持った画でした。
全体的にはとてももぐもぐしていて、たいそう食べまくっているのが気持ちのいい漫画でしたよ。

孤独のグルメ (扶桑社文庫)地方食ぶらり旅 駅前グルメの歩き方 (KCデラックス)『孤独のグルメ』『駅前グルメ~』はこちら。


村田喜代子『八つの小鍋』 [本]

なんと、実に3ヶ月ぶりの更新である。・・・・・

村田喜代子の短編集『八つの小鍋』を読む。
この方は芥川賞をはじめとして、さまざまな文学賞受賞している。
その、受賞作品を多く収録した短編集。

八つの小鍋―村田喜代子傑作短篇集 (文春文庫)

八つの小鍋―村田喜代子傑作短篇集 (文春文庫)



たとえば太宰治作品を読んでいると、語り手は一体誰に向かって何のために語っているのか、などと思ったりすることがあるのだが、この短編集所収の「鍋の中」も、私は、途中からおばあさんの語りについて、かなりの疑問がわいてしまった。
いわゆる「信用できない語り手」っぽい。
そして実際に、おばあさんの語りは信用できないものであった。

幻想的な描写もあるが、これについては中途半端な感じは否めず、皆川博子さんとか河野多恵子さんとかもっともっと幻想性の高い作家はいる。どちらかというと、村田さんの作品では、私は「白い山」の五番目の話に出てくる「谷のばあさん」のようなお話が好きだ。
深い深い谷の底にすんでいるおばあさんが、山の暮らしを淡々と生きて、山の食べ物を毎年きっちり加工して、お客が来ればさっとそれを料理して出す。老人だからあるとき転んで足の骨を折ってしまうのだけれど、そうして病院に長いこと入院するのだけれど、早く家に帰りたくて泣いて帰ってきてしまう。すると足の骨が変な形にくっついてしまい、もう普通に歩くことができない。それでも這って家の中を歩き回り、生活の用を足して、山の食べ物をちゃんと保存したりする。
そういう淡々とした日常を描くのがうまいなあ、いい話だなあと思って読んだ。

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